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トップ  >  最後の真剣師 小池重明  >  アマ最強 小池重明

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 小池重明
(こいけ じゅうめい、本名・こいけ しげあき、1947年12月24日 - 1992年5月1日)は、愛知県名古屋市出身のアマチュアの将棋指し。アマ最強と謳われ、賭け将棋で生計を立てる真剣師としても伝説的な強さを誇った。
アマチュア将棋界の異端の強豪といわれていた小池重明は平成4年5月1日の午後4時20分、茨城県石岡市の医師会病院において死亡した。肝不全による死亡だが、生命源のパイプ管を自分で引きちぎったというから自殺したことになるかもしれない。享年44歳であった。
超偉人伝説 殺し屋と呼ばれた真剣師伝説 小池重明



第3期東海名人戦

通天閣5番勝負第1局


通天閣5番勝負第2局

通天閣5番勝負第3局


通天閣5番勝負第4局
アマ・プロ対抗リーグ戦
第1局

アマ・プロ対抗リーグ戦
第2局

アマ・プロ対抗リーグ戦
第3局

アマ・プロ対抗リーグ戦
第4局

アマ・プロ対抗リーグ戦
第5局

第34回全日本アマチュア
将棋名人戦
準々決勝


第34回全日本アマチュア
将棋名人戦
準決勝


第34回全日本アマチュア
将棋名人戦
決勝
プロアマ名人記念対局
(角落ち)


プロ・アマお好み対局

プロ・アマお好み対局
(対升田幸三戦 角落ち)


朝日アマプロ角落ち九番勝負
(対大山十五世名人戦 角落ち)


プロアマ指し込み三番勝負
第1局(角落ち)


プロアマ指し込み三番勝負
第2局(香落ち)


プロアマ指し込み三番勝負
第3局
第6回読売アマ実力日本一
決定戦(東日本5回戦)

第6回読売アマ実力日本一
決定戦(東日本決勝)


第6回読売アマ実力日本一
決定戦準々決勝


第6回読売アマ実力日本一
決定戦準決勝


第6回読売アマ実力日本一
決定戦決勝

現アマ名人元名人三番勝負
第1局

現アマ名人元名人三番勝負
第2局

 小池重明自叙伝1991年「将棋ジャーナル」紙に掲載

私は昭和二十三年一月二日、名古屋市中村区牧野町で生まれました。
父は杉田重次、母は玉置かほる。
私は一人っ子である。
物心のついたころには、小池信春と一緒に住んでいたが、姓だけは杉田のままだった。
二十九年、名古屋市中村区の牧野小学校入学。
小学校四年まで私だけが両親と異なる杉田姓を名乗り、おかしいな、何かあるな、とは思っていた。
事実は、母が酒ぐせの悪かった杉田の父と別れて、その後、小池の父のところへ、私を連れ子に再婚したというわけである。
私の育った牧野町というところは、東京の山谷、大阪の釜ケ崎(愛隣地区)と並び称される、名古屋駅裏の有名なドヤ街(簡易宿泊所街)だった。
二階建ての一軒屋をベニヤ板で幾重にも仕切って間境とし、六世帯くらいが一緒に住みつき、じつににぎやかに生活していた。
何を正業にしているか分からない人たちばかりで、暇さえあるとみんなで花札バクチに興じていた。
気丈な母はバクチをやらせても強かったが、父はいつも負けてばかりいた。当時、父は傷痍軍人として、各地の祭や行事の催される神社、お寺などを回っては稼いでいた。

父が帰ってくると、白い募金箱を引っくり返して、母と二人でお金の勘定をしていた。
喜捨がたくさんあったときは、両親の機嫌が良く、私の欲しい物は何でも買ってくれた。
私が小学校二年のころのある日、家の外で遊んでいると見知らぬおじさんがやってきて、「坊や、名前はなんていうの」と訊いた。
「しげあき」と答えると、続けて「いま家の中にいるのはだれとだれ?」と訊くのだった。
私が「父ちゃんと母ちゃんと北さんと近ちゃん、ほかにも……」と答えると、「ありがとう」と言って、頭をなでてくれた。
いつ来たのか、ほかにも五、六人の男が集まっており、何かヒソヒソ相談すると、いっせいに家の中へ踏み込んでいった。
刑事だったのだ。
バクチかヒロポンか、いずれにしてもあまりかんばしくないタレ込みが、どこからか入ったらしかった。
私はびっくりしてポカンとながめていたが、結局、証拠不十分で大した罪にはならなかったようだ。
こんな話がさして珍しくもなかったのが、私の育った当時の環境だった。さて、母は……夜の女だった。
母は身をけずって、毎日、私に「将棋代」として千円の小遣いをくれたのである。それを思うとき、私の胸はきりきりと疼いた。
しかし、それなりに立派な女だったと思う。
若くして亭主と別れ、乳飲み児を抱えて大都会の真っただ中に投げ出されたとき、手に職もなく近くに身寄りもない孤独な母が選んだ道を、子の私はとても冷静な心で批判できない。
ただ悲しいだけである。
そして、母はじつにたくましかった。
幼児と身体不自由な夫を守って、文字通り体を張って生きながら、死に至るまでみじんの暗さもみせなかった。
気っぷがよく男まさりで、いつも明るく立ち振る舞っていた。
私が何とかいじけずに育ったことができたのも、この母あってのことと、心から感謝している。
母について、こんなこともあった。
当時、子供の遊びといえば、路地裏でのメンコ、ビー玉、コマなどが多かった。
ある日、私がメンコで負けて一枚も無くなってしまい、みんなのやるのをじっと見ていたときのことだった。
「重坊(しげほう。母は死ぬまで私のことをこう呼んでいた)これでメンコ買ってきて、もう一度頑張りな!」
いつの間に二階から見ていたのか、階段をドサドサと音を立て降りてくると、母は私の手にお金をしっかりと握らせた。
その勢いにびっくりして母の顔を見ると、母の日はとても優しく笑っていた。
私はグッと胸が詰まって、思わず「かあちゃん、ありがとう!」と叫びたいところだったが、何んとなくテレ臭く、そのままお金を持って黙ってかけだしていたのだった。
また母は映画が好きで、よく駅前の 「東映映画館」に連れて行ってもらった。
大川橋蔵主演の「真吾十番勝負・二十番勝負」を母と観に行ったら超満員で、なかなか座れなかったのも、懐かしい想い出のひとコマである。
父にはよくパチンコに連れて行ってもらった。
父子で遊んで、帰りには私の好きな景品を取ってくれるのだった。
ところが何度か行っているうちに、私はパチンコの魅力にとりつかれ、すっかり病みつきになってしまった。
小学校低学年であるにもかかわらず、三日にあげずパチンコ店に出入りするようになってしまったのである。
そのたび父は怒ったが、いったん覚えた味はなかなか忘れられない。
両親に隠れてはコソコソとパチンコ通いに精を出すのだった。
たんなるお説教では効き目がないと知った父は、パチンコ店に手を回し、子供が一人で来た場合は出入り禁止ということにしてしまった。
そこでようやく私の最初の道楽ぐせも収まったのである。

 名古屋~東京~名古屋

小学校五年になった時、子供の将来を考えた両親は、父の東京の実家に私をあずけた。
世田谷区の区立・池尻小学校に転校。
祖母と伯母の二人暮らしの家庭で、いちおうは歓迎されたのだが……すぐ前の家に父の姉夫婦が住んでおり、子供が三人いた。
一級上 (小学六年)と四年、三年でだいたい私と似たような年格好だった。
よく遊んでもらったが、ときどき何となく除け者扱いされたり、それほど深刻ではないが、軽くいじめられたりもした。
それまで、どちらかというと一人っ子のせいもあり、貧しいながらも両親の愛を一杯に受けてわがままに育っていたから、とても悔しく、そして悲しかった。
やはり血がつながっていないせいだろうか、などと名古屋の方角の空を見やりながら、子供らしい感傷に浸ったりした。
現在でもその頃の自分のみじめな思いを鮮明に覚えている。
生まれて初めて、女の子からラブレターをもらったのも、このころである。
同級生で私より身体が大きかった。
      こ
〝東京の女は進んでいる……″と思ったものだ。
また隣のクラスの女の子から「付き合ってくれますか?」と言われ、目を白黒させたこともある。
ちょっぴり嬉しいような恥ずかしいような気持ちがしたが、当時はまだまだ無邪気で、むしろ内向的な子供だったので、さすがにそれ以上は何にも発展しなかった。
どうしたわけか、私は模型工作が大好きでラジオやモーターなどキット(模型を組み立てる材料一式のセット) でなく、それぞれ部品を買ってきては組み立てていた。
要らなくなった目覚まし時計をもらい、タイムスイッチを作ったのも、このころ。
きっと孤独で淋しがり屋の少年にぴったりの遊びだったのだろう。
勉強のほうはまずまずの出来で、とくに算数と理科が得意だった。
学級委員になったのも最初で最後の経験だった。
内気なくせに、どこか小生意気なかわいくない子供だったように思う。
三十五年、区立池尻中に入学するが中学二年になると、私は懐かしい故郷の名古屋に戻った。
住まいは則武町に変わっていた。
名古屋駅裏のドヤ街から二分足らずのところにあり、木造二階建てのアパートだった。
編入手続きで母とともに地元の中学へ行くと、規則で頭は五分刈り以下にしなければならないという。
東京生活で私の頭髪は長くなっていたからそれでは可哀相だということで、他地域の学校を探してやると母がいった。
たとえ三年半の問でも、子供を手放した母の、せめてもの償いだったような気がする。
このころ母の身内はすべて名古屋にきていた。
和歌山県の御坊近くの山村に住んでいたのだが、山崩れで一村が全滅したためだった。
祖父、祖母、そして女ばかり五人姉妹だった。
その中で四女に当たる伯母が中区の弁護士先生の事務所に勤めていたので、そこに私の住民票を移して越境入学した。
名古屋市立前津中学校。
試験がないのになぜか名門校となっており当時三分の一か四分の一の生徒は、私と同じく区外からの越境入学だった。
父はそのころ葬祭関係の仕事につき定収入が入るようになったので、生活はいちおう安定していたが、母は相変わらず他人様にはいえない 「後ろ暗い稼業」をしていた……。
名古屋に戻ってすぐ、父に釣りを教わった。
自転車で名古屋城のお堀に行き、フナ、ライギョなどを初めて釣った。
それからしばらくは釣りに熱中し、自転車で片道二時間、三時間かかる場所でも平気で出かけ、一日中いても飽きることがなかった。
ある日、友達に教わった釣り場に父といっしょに行くことになった。
自転車で二時間半位かかるところだが、途中で空模様がおかしくなり、現場に着いたころは雨が土砂降りだった。
それでも小一時間頑張ったが、釣果のほうはさっぱりで、小魚一尾かからなかった。
二人ともパンツまでぐっしょり濡れ、散々の体たらくだった。
帰り道、父がラーメンをおごってくれたが、平素無口な父がポッリポッリと昔話などをしてくれ、ほのぼのとした気持ちになった。
父と子の二人だけにしか分からない何かが通い合い、無性に嬉しかった。
学校では図画が得意で、写生画(風景)とデザイン画が好きだった。
校外授業で名古屋城に写生に行ったときのことである。
みんながお城を描いているのに、私だけ他の風景を措いた。
後日、教室で美術の先生が一枚ずつ作品の批評をしたが、私の順番になると、まったく思いがけなく激賞し、私は頭がボーッとなるほど嬉しかった。
もっとも後になって考えると、何をどうはめてもらったのか、具体的な点はさっぱり想い出せなかった。
デザイン画が県のコンクールに人選し、美術館の壁に私の作品が張り出されたのもこのころで、たいへん嬉しかったのを覚えている。
しかし、勉強のほうはぜんぜんだめで、箸にも棒にもかからなかった。
教室以外では教科書を開いたことがなく、ひまさえあると遊び惚けていたのだから、これも当たり前の話かもしれない。

 将棋~奨励会~高校中退

昭和三十八年、愛知県立・名商工業高校に入学。
高校に入ってからも私の遊び癖は一向に改まらず、よく学校をサボっては繁華街の今池で友達とビリヤードをやったりしていた。
だが、ほどなく私は将棋に強い興味を抱くようになった。というのも、高校生になったばかりのとき、父から将棋の手ほどきを受け、最初は父を相手に遊んでいたの
だが、いつの間にか父に勝てるようになり、なんとなく物足りなさを感じていた。
たまたま本屋で将棋雑誌を見つけ、頁をベラベラめくっていると、偶然に名古屋市内の将棋クラブの広告が目に入った。それがきっかけで「板谷道場」へ通うようになり、しまいにはカバンの中に教科書の代わりに着替えを入れて、学校へ行かないで道場へ日参するほどイレ込んだ。当時を振り返って故・板谷進九段は「学校に行かず、よく弁当持ってウチの道場に来とったもんだ」といっていた。棋書は定跡の本はなにが書いてあるのかさっぱり理解ができなかったので「必死」 の本を愛読した。
そうこうしているうちに、将棋を覚えて約一年後の高校二年(十六歳) の春、愛知県下の「中部学生選手権大会(小・中・高校生、大学生まで参加)」が開催され、自分でも不思議なくらい勝て、思いがけなく学生チャンピオンになってしまった。大会の結果が地元新聞に写真入りで大きく掲載されたので、全校生徒の前で校長先生から表彰された。まさか学校をサボって道場に行っているため強くなったのです、とも言えず、ひたすら恐縮した。棋力は二段を公認された。
自分でも短期間の間によく強くなれたものだが、板谷道場ではそのころ席料のほかに「盤駒使用料」という名目で対局者の敗者から若干の経費を徴収していた。私は当時一日千円(現在の貨幣価値で換算すると七千円前後)の小遣いをもらっており、高校生としてはむしろ多い方だった。しかし、道場に通いはじめたころはやたら弱かったから、誰とやってもコロコロと負けてばかりいた。そうすると、盤駒使用料の方も嵩み、バカにならない金額になった。そこで段々と本気になりはじめ少々戦局が悪くても、歯を食いしばって頑張るようになった。いわば一種の真剣勝負で、負けたときの痛みと勝つことの価値を痛切に思い知らされたのである。後年、私が真剣で生活をしのぐ時期が来るが、その原点となるものは、じつは初心者のころの勝負将棋にあったのではないかと思えるのである。
折しも旧中村遊廓から五、六分の場所に西田さんの経営している「太閤クラブ」があり、私はいつしかそちらの方へ通うようになっていた。私は中学生のころからすでに煙草の習慣が身についてしまっていたから、高校で「煙草検査」が厳しくなるにつれ、ますます学校嫌いになってしまった。勢いとして、その分だけ将棋熱に拍車がかかるようになり、腕前のほうもメキメキ上達した。高校二年のときに県下の学生チャンピオンとなり二段を公認されたが、その後、三ケ月余りの間に実力四段となり、たいていの人には勝てるようになった。
西田さんは、そんな私にずいぶんと目をかけてくださった。そして、花村(元司九段)先生の門下に入り奨励会に行かないか、と熱心に勧められた。このとき初めて将棋にプロの道があることを私はハッキリ認識したのだった。しかし、多少不良っぼく、ヒネたようでいても、本質的に一人っ子で甘えん坊だった私は、両親の元を離れて東京へ行くのは嫌だから、とよく考えもしないでその話をアッサリ断ってしまった。小学生のころ東京の親戚にあずけられた苦い体験によるのか、その時の私の心境は、とにかく一人で上京するのが心細く、嫌で嫌でたまらなかった。
人間の運命なんてどう変わるか、まったく分からない。後年、プロ入りを熱望し、あれこれスッタモンダの末、その絶望の果てに数々の不祥事を引き起こし、将棋界全体から指弾を受けるようになった私だが、あのときプロ入りを決意していたら、あるいは私の運命は百八十度変わって、もっと明るい建設的な方角に向いていたかもわからない。女々しいと笑われようと、安っぽい感傷と嘲られようと、それは私の哀切な実感である。
高校二年の二学期に入ったある日、私は大醜態を演じてしまった。
悪童達に誘われて、それこそ生まれてはじめてアルコールを飲んだ。ウイスキーをコップに二杯、それも当時の悪ガキどもの間で流行っていた睡眠薬のハイミナール四錠入りを飲んで、たちまちダウン。両側から友の肩に支えられて、小便をたれ流しながら家まで送ってもらった。
父は怒るまいことか、即座に、高校をやめろ、といった。現在なら、そのときの父の怒り、父の哀しみがよく理解できるのだが、当時はまるで無鉄砲だったから、何ら反省することもなく、さっさと高校を中退するや家出してしまった。

 青春の入口

高校を二年で中退した私は、弱冠十七歳の身で悪友に紹介されて「ナベ屋」 の番頭になった。
ナベ屋とは、ある種の旅館である。
ただ普通の旅館と異なるのは奥の部屋に常時女を五、六人待機させている点であるもちろん、女は客の求めに応じて酒席にはべり、あるいは春をひさぐ。
いわゆるアイマイ宿である。
私の勤めた旅館に、広美という女がいた。
二十一歳の若さで、ポチャボチヤとした色白で丸顔の、笑うと大きなえくぼができる。
とても愛くるしい顔立ちをしていた。
広美は私を弟のようにかわいがり、そして私を一人前の男に仕立てた。
はじめての体験に私は夢中になり、のぼせ上がって広美を追っかけ回した。
本当は広美も内心迷惑していたのだろうが私にはそんなふうに見えず、いずれは二人で世帯を持ちたいとまで夢見た。
破局は意外に早く訪れた。
昼間から広美のアパートにしけ込んでいると、あにはからんやコワーイその筋の、広美の旦那がやってきたのである。
なにしろ、世間様のことは西も東も分からない坊やである。
「広美さんを愛しています。広凄さんをぼくにください」真正面から堂々と切り込んで行ったものである。
旦那は信じられないといった顔で、一瞬ボンヤリしていたが、たちまち顔面紅潮すると私に向かって凄い剣幕でつかみかかってきた。
私は旦那のパンチを右に左にかいくぐつてやっとの思いでアパートの戸外に転がり出た。
そして、なおも喚き声のあがるアパートを背に一目散に逃げ出した。
もちろん、ナベ屋のほうもそれっきりになってしまった。
次の就職先は、大須のヅカ喫茶店。
バーテン見習いとして、中京競馬場の出店へ派遣されたりした後に、今池の本店へ回された。
この喫茶店は、同じ会社が経営しているホテルの中にあり、躾もきびしかった。
従業員は五階級位にランクづけされ、私は頑張ってようやく真ん中辺まで進むことができた。
ところが、そこで事件が起きた。
というのは、そのころ喫茶店に勤めるかたわら、夜はアルバイトでバーで働いていた。
このバーは韓国人の夫婦が経営していたが親切な人たちでよくごちそうしてくれた。
いまでも真っ赤になるほど唐辛子をまぶしたホーレン草が日に浮かぶ。
このバーにB子という女がいた。
美人というほどではないが、とてもよく気が合い、いつしか淡い恋心を抱くようになった。
そうこうしているうちにB子から借金の申し込みを受け、汗水たらして貯めた金をほぼそっくり貸してしまった。
ところが、B子はそれっきり店に出て来なくなってしまったのである。
あちこちに借金をこしらえ、男と逃げたという噂が飛び交った。
傷心した私は、がっかりしてバーを辞め、やがて喫茶店も辞めてしまった。
その後、名古屋市内の喫茶店、バーなどを転々とし、気がついたときには尾張一宮まで流れてきていた。
紹介する人があって、スナック風の店で働くことになり、では明日から、ということでその晩は店のママと酒を飲み、店で借りているアパートに泊めてもらった。
その時、ママに店の女の子だけには手を出さないように、と固く念を押されたのだが……。
しかし、その晩泊まった部屋と襖一枚へだてて、隣の部屋には何と店の若い娘が寝ているではないか。
言わずと語らずのうちに健康な二つの身体は一つになることを求めたのも、また必然の成り行きだった。
どういう仕組みか、これはただちに店にバレ、翌朝、待ったなし、でクビを言い渡された。
文無しで放り出されたのだから、これにはまいった。
かくして私はトボトボと春日井まで徒歩で帰って行った。
このころ父は葬祭関係の仕事が軌道に乗り春日井に念願の建売住宅を買うまでになっていた。
母もきっぱりと夜の商売から足を洗い、親子三人水入らずの生活が始まった。
道楽息子の私も約二年間にわたる彷裡生活に終止符を打ち、父の頼みを入れて父の勤め先である葬祭会社に就職し、平凡なサラリーマンになった。風雨きびしかった我が家にもしばらく人並みな平和が訪れようとしていた。時に十九歳。
会社は互助会組織のハシリである葬祭会社で、月掛けで会費を納めると、いざ不幸が起きたときに無料もしくは格安の費用で葬儀一切がまかなえる。従来にない新しいシステムとして好評で、会社は順調に好業績をあげていた。
私の仕事はお客様のところへ行き、葬式費用の見積もり、湯かん、祭壇飾り付け、出棺手配など実際の最前線業務だった。私は体力に恵まれている方だったので、少し馴れてくると、水商売よりはかえって仕事がラクだった。いちおう身分が安定してくると、二年ばかりやめていた将棋の虫がまたぞろ頭をもたげてきた。週一回の休日が待ち遠しく、その日は朝から浮き浮きしていた。
名古屋駅前に古くから有名な「長谷川旅館」があった。長男が後を継ぎ、次男は駐車場経営などをしていたが、そのうち駐車場を半分つぶして将棋道場を作った。たまたま西田さんの太閤クラブの常連だった人に出会い、新しく出来た道場が面自そうだから行ってみようと誘われ、それがキッカケで長谷川さんの道場へ通うようになった。

 初のアマ名人戦~真剣

昭和四十三年、全国アマ名人戦の愛知県予選に初めて出場し、優勝、代表になった。
二十歳だった。
東地区大会は二勝で予選通過の規定だった。静岡代表の中邨常誠さんに負け、東京代表の吉田直射さんに勝ち、同じく東京代表の三上博司(昭和五十年アマ名人)さんには千日手の末、なんとか勝つことができた。
いよいよ本戦トーナメントである。
クジ運によってかなり成績が左右されると言われるが一回戦の相手は誰あろう、大本命の関則可さんだった。関さんは当時すでに全国的に名の売れた強豪で、過去東地区大会で優勝し、東西決戦では惜しくも敗れてアマ名人の称号を逸しているものの、実力的には歴代アマ名人に伍して何ら遜色がなかった。もちろん今大会での優勝候補の筆頭だった。関さん自身もこの年は雪辱の意気に燃えて、事実アマ名人の栄冠に輝いたのだから、これは不運以外のなにものでもない。全国的規模の大会に初出場の私には荷が重すぎた。軽く一蹴されてしまった。
 関さんにはこの時はじめてお目にかかったのだが、それから後しばしばお逢いする機会に恵まれ、次第にその人柄と将棋に対する激しい情熱に傾倒していくようになった。
アマ名人戦出場を機会に、私の将棋に対する視野はかなり広がり、全国のアマ強豪の存在をおぼろげながら意識するようになった。
そんな折、愛知県蒲郡で「稲垣九十九追善将棋大会」が開催された。この大会は当時珍しい賞金大会なので、全国から超一流の真剣師が集まった。
準決勝に開則可さん(東京)、伊藤秀一さん(神奈川)、坪井定一先生(名古屋、第一回アマ名人)、湯川寿香さん(名古屋)が進出し、長谷川さんの道場で対局することになった。立会人は「近代将棋」誌の森敏宏さんだった。
私はかつて太閤クラブ時代、坪井先生に一番だけ角落ちを指していただいたことがあり、そのせいもあって内心ひそかに坪井先生に声援を送っていた。ふたをあけてみると、開村湯川は関の勝ち、伊藤対坪井は坪井の勝ち。関対坪井の決勝戦は坪井の勝ちで私はうれしかったが、同時にますます関さんの存在を意識するようになった。
近将の森さんと徹夜で戦ったのも懐かしい思い出である。一局千円の真剣で胸を借りるつもりでぶつかっていったが、結果はきれいに指し分け、後にさわやかな気分が残った。
真剣について記すと、太閤クラブで四段になったころから指し始め、ほとんど地元の棋客が相手だったから、まずお金を取られたことがなかった。
真剣といえばこんなエピソードもあった。
太閤クラブに行商をしている面白い二段のおじさんがいた。ある日、私を近所の喫茶店に誘い出して、こう言うのである。                             
「あんさん、ワシと真剣やっとくんなはれ、これは儲かりまっせ。もちろん談合やがな-」
つまり、四段の私と二段のおじさんとでは実力が違い過ぎるから、誰が見ても私が勝つに決まっている。そこで賭け金の乗り手を募集すると、みな争って私の方に来るであろう。そこで実際の勝負は、私が手加減しておじさんに勝たせるのである。
そうすると、おじさんのフトコロへは賭け金がどっさり入る。これを何回か繰り返すと相当の金額になる。それを二人で山分けしようという計画である。私はおじさんの巧妙な話術にフラフラと乗せられ、いつのまにかその話を引き受けていた。
さて、結果の方はというと- 一回戦は五、六人の客がいっせいに私に乗った。とところがこれもアッサリ私が負けると、次からは誰も乗らなくなってしまった。
おまけに乗って損をしたお客からは恨みがましい目付きでニラまれ、身のすくむ思いがした。一見美味しそうな話でも、ウツカリ軽率に同調すると後で取り返しのつかないことになる。乗りつぶしなどという悪どいことは決して二度とやってはいけないと心から思ったものだった。

 夢を迫って上京

将棋が少しずつ強くなって、アマ棋界の強豪との付き合いがあれこれと増えてくるにつれて、私の将棋に対する夢と憧れはにわかにふくらんできた。
仕事(葬祭互助会)に対する不満はほとんどなく、私なりに一生懸命に働いていたのだが、いったん思いつめると馬車馬のように前方しか見えなくなるのが、いつでも私の欠点。カーッとのぼせて走り出してしまうのだ。このときもそうである。むやみやたらに将棋が指したくなって(道場でふだん指しているような気楽な相手とではなく名の知れた強豪)、大した準備もないままに昭和四十四年秋、上京した。私は二十一歳になっていた。
東京では顔見知りの関則可さんだけが頼みの綱だった。当時、関さんは将棋中心の生活で、将棋ライターとして生活費を稼いでは将棋に打ち込んでいた。前年には宿願のアマ名人を獲り実力的にも全盛時代で、アマ棋界の星として輝かしい存在だった。
ちょうど現在の奥さんと大恋愛中で、公私共に多忙だったにもかかわらず、名古屋からポッと出の私を、実の弟のようにじつによく面倒をみてくれた。
まず、六畳一間の国分寺のアパートに居候させてくれたのを手始めに、奨励会やアマ強豪との真剣を次から次にセットしてくれた。思うに開さんは、かつて自分が少年の折、茨城県の日立市から笈を負うて上京し、奨励会に通ったころの心細さと張りつめた気持ちを思い出し、私の姿にかつての自分の心情を投影したのかもしれなかった。
ツノ銀中飛車で有名な松田茂役八段(当時、故九段)を紹介してくれたのも関さんだった。松田先生は酒が好きで、物事にこだわらない鷹揚な性格のお人だった。御自宅にお邪魔してごちそうになりながら振り飛車の真髄を教えていただいた。番数にすれば通算数十局にもなるであろうか。なんの個人的利益にもつながらない私に対して、終始熱心にまた厳しく指導してくださるのだった。そして、もし奨励会にでも入るようなことがあったら、私が師匠として後見役になってやるとまで言われた。
後年、私のプロ入り騒動の際に先生はそのときの約束を守って、仲間のプロ棋士から孤立してまでも私を庇ってくださったのである。しかし、私の不徳のいたすところ、結果として先生には多大なご迷惑をおかけしてしまった。まことに汗顔の至りである。
ほどなく、やはり関さんの口利きで「上野将棋センター」に手合い係として就職することができた。これで一応経済的な面での不安も解消して、ますます夢のふくらむ毎日だった。菊地常夫七段(当時奨励会二、三段)とはウマが合い、早指しで通算二百番ぐらい対局したのも懐かしい想い出である。対戦成績はほぼ互角に近かったように思う。その気になれば強い相手は次々に見つかり、そういった意味で東京は人材の宝庫である。地方と違って対戦相手に困ることはなく、改めて東京に出て来てよかった、と強く思ったものである。
東京の将棋クラブのお客さんが多いのにも驚いた。上野将棋センターというのは、日本一入場者の多い「新宿将棋センター」と同じ系統の道場で、矢島浩昌氏が責任者を務めていた。ふだんのお客もけっこう多いが (一日平均百人以上)、正月三力日の賑わいには全く目を見張らされた。文字通り立錐の余地がないくらい場内は混み合っていた。私は道場に寝泊まりし、将棋三昧の生活を送り、貧しくとも充実した気持ちの毎日だった。
ところが、好事魔多し、とはこのことだろうか。またまた思わぬ女難に出違ってしまい、私の人生の軌道は大きく狂ってしまうのだった。
ある日のこと、道場の仕事が終わって外へ出ると電柱になにやらビラ(名刺)が貼ってある。電話をすると女性が付き合ってくれる、という例のやつだ。私はちょうど酒が入ってホロ酔い機嫌になっており、ついフラフラと無警戒にその気になってしまった。
電話をかけて喫茶店で彼女と待ち合わせをした。といっても淡い期待外れで、怪し気なことは何にも起こるムードではなく、十数分間世間話をしただけである。ところが、彼女はそれだけでン万円を支払えという。持ち合わせが足りないというと、いつの問にか怖いお兄さんが傍らにすり寄って来ていた。いわゆる美人局というやつだ。
現在の私なら、この程度の者は適当にあしらって追い返してしまうのだが、当時は田舎から出て来たばかりで大都会の西も東も分からない純情(?)な二十一歳の青年だった。
「家はどこか……店はどこか……」
と執拗に責め立てられて、とうとう足りない分を道場の売上金で払わされる羽目に陥ってしまった。
私は酔いも醒めて、後に残ったのは苦い後悔と自費の念に駆られるばかりである。そして、明日どう言い訳をしたらよいのか思い惑い、暗いイヤーな気分に襲われていた。男らしく正直に訳を話して、今度の給料分で売上金に手をつけた分を清算させてもらえばよいのだが、頭ではそれは分かっていても、とてもそんな気にはなれなかっ顔をして話せばよいのか……いつの間にか、私の足は名古屋に向かっていた。
名古屋に帰った私はまた父の仕事を手伝うことになった。父はちょうど新しく出来た互助会の責任者として迎えられ、大いに張り切っている最中だった。両親は私が帰ってきた理由をなにも知らないから単純に喜んで温かく歓迎してくれた。私も互助会の仕事にはかなり馴れていたから働くことは嫌ではなかった。車の免許を取ったのも、このころ。私の生活の中で、当時が最も落ち着いていたような気がする。車で仲間と三重県松阪まで肉を食べに行ったり、母の実家があった和歌山まで家族とドライブしたりした。もっとも束の間の平穏だったといえばいえたが……。
そうこうしているうちに、私は十六歳の可憐な女性Tと同棲生活に入っていた。現在考えると、子供のママごとのように他愛のないものだったが、それはそれで結構楽しかった。結局、Tとは半年位で別れたが、Tはその後結婚して二児の母となり幸せに暮らしているようだ。罪深い私にとって、せめてもの慰めとなっている。
というようなことで、私は表面上はおおかたの青年たちと同じように一応は平穏無事な生活を送っているようにみえた。
しかし、一皮むけば将棋に対する未練が、ブスブスと鬼火のように体の中で燃えくすぶっていた。だが、あんな恰好で東京を逃れ出してきている以上、これから先、将棋に対してどういう姿勢で立ち向かったらよいか、私の頭は混沌としてわけがわからなくなっていた。とうとう思い余って、板谷進八段のもとへ相談に行った。板谷先生は、「一刻も早く前(上野の件)のことを清算しなさい。そしてスッキリしてから出直せばよいのです」と諒々とさとされた。
暗黒の中に一条の光明を兄いだした私は、早速上京し勇気をふるって関係者の方々とお会いし、なんとか許してもらうことができた。
「これでまた将棋が指せる、大会にも出場できる……」
と私は小躍りせんばかりに喜んで名古屋に帰ってきた。これで精神の安定を得ることができて、私は幸せな気分に浸ることができた。
早速、私は大阪へ行き一カ月あまりあっちの道場、こっちのクラブと将棋の武者修行をした。
新世界。ジャンジャン横丁の将棋クラブでのことだった。真剣界の長老大田学氏と気付かず真剣で勝負していると、傍らで見ていた大きな男が、「ニイちゃん、よう指すやんけ」と口を出した。
見るからにイカツイ顔をしており、将棋も腕っぷLも強そうだった。「鬼加賀」の異名を持つ加賀敬治氏(アマ名人二回)だった。
大田さんとは一番勝っただけでやめた。いかに物に無頓着な私とはいえ、大田さんの尋常ならざる指し回しと周りの人たちの口ぶりから、これがかの高名な真剣師であると分かったから、相手に敬意を表してサッサと降りてしまったのである。

 昭和四十八年

昭和四十八年(二十五歳) ころ、私は突然十四歳も年上の女性と激しい恋に陥った。
相手の人は、御主人の倒産劇に巻き込まれて表向きは協議離婚の形をとって別居していたが、実際はレッキとした人妻だった。
最初、その身の上に同情していたのだが、気がついてみると愛情に変わっており、あっという間に抜き差しならぬ関係になっていた。
私たちは顔見知りや何かとしがらみが多くて住みにくい名古屋を捨て、東京に駆け落ち同然の姿で出奔した。
もちろん両親は反対だったが、もはやブレーキは利かなかった。
上京すると、まるっきり知らない場所はなにかと不安ということで、松田茂役先生が住んでおられる千葉県市川市に新居を構えた。
私は運転手として生計を立てることを考え、ある運送会社に就職した。
一人で北海道の釧路までトラックを運転して行ったことがある。
東京から青森まで八百キロ、函館から釧路まではせいぜい二、三百キロ位と思っていたら、とんでもなく、東京から青森までの距離とあまり変わらない。
合わせて片道千五百キロ、往復三千キロの旅だった。
この間、たった一人で車を運転するわけだ。
孤独で、単調で、いいかげん嫌になる。
しかし、他に金になる特技をもっていない悲しさ、たとえ苦しくても運転手として頑張るよりはかなかった。
やがて家内は妊娠し、女の子が生まれた。
が、早産で九百グラムの体重しかなかった。
未熟児専門の「築地病院」に入院したが、その中でもいちばん小さかった。
それでも半年位は生きていたろうか、ふとしたことから風邪をこじらせて肺炎になり、あっけなくこの世から去って行った。
まことに風のように来り、風のように去って行った小さな命だった。

 母死す

昭和五十四年(三十一歳)秋、朝日アマ大会に出場中、一通の電報が会場にもたらされた。
「ハハ、シス」
の通知だった。
折から対局中の私に、主催者の関さんは一瞬ためらい、そして対局が終わるまで教えなかった。
武士(もののふ)の志というものだろうと、私は感銘した。
名古屋へ向かう車中、私は鳴咽のし通しだった。
母の容体が悪化したころ、私が子供の写真を送ると、反対にして見ていたりしたそうだ。
見たい気持ちと、実際の動作が一致しなくなっていたのだろう……。
想い出すことすべてが涙のタネで、私は今後これほど涙を流すことは二度とあるまい、と思うほど泣きに泣いた。
そして「かあちゃん、ありがとう」と小さく呟くのだった。
それだけが、たったそれだけのことだけが、一生十字架を背負って生き続けた、悲惨にして偉大な母に対して、不肖の息子がしてあげられる、たった一つのことだった。
 
 プロ入り問題の真相(顛末)

昭和五十七年、暮れ頃、私は借金がかなり増えていたので、なんとか手当てしなければ、と真剣の旅に出た。
名古屋を振り出しに、大阪、広島、小倉、宮崎、仙台、秋田という順で巡り、それぞれの土地の強豪に真剣をお願いした。幸い、それ相当の収穫があり、当座少しばかり息をつくことが出来た。
さて、大阪から広島へ新幹線で向かう途中、食堂車へ行くと、日本将棋連盟の大山(康晴十五世名人)会長が連れの方となにやら話しながら食事していた。近づいていくと、視線がバッタリ合い、思わず体が硬くなった。大山名人には「朝日角落ち戦」でお相手して頂いたことがあり、一応面識があった。
私「どうも、お久しぶりです……」
大山「いや、しばらく、どちらまで行くの」
私「広島から、ずっとあちこち回ろうと……」
そんなやりとりがあって、私が少し離れた所で食事をしていると、大山名人の、「九号車にいるから、あとでまた」という言葉があった。
〝なんだろう?″と私が考えている間に、名人と連れの人はいつの間にかいなくなった。
私は急にのんびりした気分になって、食事をすませて窓の外の景色を眺めていた。
そこへ、大山名人が一人でやって来た。お茶を飲みながら話しているうちに、「小池さん、プロでやってみる気はないの?」と大山名人。
びっくりしたが、うれしい気持ちで、「三段からでも、入れるものなら入って、頑張ってみたい気持ちはあります」と私。
「三段は年齢制限があるから、まずいな……」と名人。
後日、東京へ帰ってから、あのときの大山名人の謎のような言葉をいろいろ考えてみたが、いま一つ真意がはっきりしない。
たんなる、気まぐれで出た言葉のようにも思えない。
そこで古い友人の「近代将棋社」の森敏宏編集長に会い、永井英明社長から大山名人に訊いてもらえないか、とお願いした。永井社長を通じての、大山会長の返事は、こんな具合であった。
「しかるべき保証人(師匠)を立てて、連盟に申し込むように」早速、長い間お付き合いをしていただいている松田茂役九段にお願いすると、快く引き受けてくださった。そして、松田先生は忙しい中を時間をさいて大山名人と会い、どんな文面にしたらよいか、打ち合わせをしてくださった。
大山名人の話では、現行の奨励会制度は年齢制限があるので、三段ではまずい、むろん、二段や初段でもまずい。入るなら四段で申し込みなさい、ということだった。
連盟の記者会(新聞、テレビ雑誌等)にも協力をお願いしたところ、全員が、「プロ入り賛成」との言を得た。
さらに、推薦人として七傭兼三氏(秋葉原ラジオ会館社長)、高木達夫氏(広島平和公園会長)のご諒解も得た。
ところが、連盟に書類を提出すると、棋士会にかけられ、全員一致(といっても、百数十名の会員中、わずか二十名しか出席していなかった) で否決されてしまった。
これでは約束が違うのではないか、と怒った松田先生は大山名人のところへかけ合いに行ったが、のれんに腕押しで、さっぱり将が明かない。名人は逃げの一手である。
いっぽう、記者会のメンバーの読売新聞の山田史生民が連盟の若手理事に話をしにいってくださったが、「読売新聞と連盟との契約金を増やしてくれるのなら考えてもよい。棋士が一人出来
ればそのぶん金が余計にかかるのだから……」と筋違いの返事だった。
当時、この間題をめぐって、あれこれとずいぶん書かれたが、私は何も反論しなかった。所詮、水かけ論になるだろうし、第一〝これで念願のプロになれる。やっと、将棋オンリーで生活できる。入ったら、勝って勝って勝ちまくって白星(お金)を積み重ね、ご迷惑をかけた方たちにも何とか返済の目途がつく。これから一生懸命がんばろう″と天にも昇る心境でいたところへ、予想外の鉄槌が下ったので、ただ呆然と放心状態だった。
あとになって、いろいろ情報を総合してみると、結局、私のプロ入りが阻止されたのは全棋士の意思というよりも、「素人のくせに、仲間をチョイチョイ負かす、あの生意気な男にお灸を据えてやれ」「われわれは苦労して奨励会から必死に上がってきたのに、途中からラクして入られ
たのではたまらない」「大山名人にだけくっついて、われわれに事前に挨拶に来ないとは何事だ」などという一部の棋士による感情的な根回し工作の結果だったようだ。
そのために、せっかく絶好のお膳立てをしてくださった松田先生をはじめ七條社長、高木会長、記者会の方々に対して、言葉がなかった。四面楚歌の中で、ずいぶんつらい思いをされたことと、私はいっそう身が縮む思いだった。
しかし、繰り言になるが、プロ入りに際して、私の棋力の合否がまったく判定の対象にならず、それ以外の問題だけで事が処理されたことについては、私はどうにも割り切れない思いがした。
「強いのがプロではないか。素人を入れるのが嫌なら、試験でもなんでもして、やっつけてしまえばすむ問題ではないか。それだけの自信がプロ側になかったのか」私の女々しい怨み節である。
それにしても、残酷な話だった。いちど与えられた希望を取り上げられるのは、まったく希望を与えられないことより、どれだけ殺生か。私の絶望感はますます深まり、さながら生ける屍のような心境だった。なにをするにも、気力が失せていた。
しかし、私の業の深さよ。借金だけは依然として増え続け、サラ金の催促は日増しに厳しくなってきていた。
破滅の時は刻々と迫っていたのだった。

 全国寸借詐欺(借金)騒動の顛末

私にはアマ名人になる以前から、一つの夢があった。それは「子供将棋教室」を開きたい、ということだった。子供達に将棋の理論とマナーを教える、そして実戦で鍛える。これは将棋の普及にもなり、将棋界のレベルアップにもつながる。もし、これがある程度事業化して定期的にやれたら、とてもすばらしいことだと考えていた。
しかし、いろいろ研究してみると、特定の会場で定期的に教室を開くことは、採算的にとても難しいし、多数の子供を対象にすることも困難である。そこで、「巡回移動教室」のようなことも考えたが、結局「将棋大会」を中心に運営するのが、もっとも現実性のある妥当な形式のように思えてきた。
会場は各区市町村の公民館を借り、会費は無料で、賞品は各地元商店街などから応援してもらう、東京二十三区の場合、一つの区で三カ月に一度ぐらいの割合で開く構想だった。月間にすると、八回大会が開催できることになる。
こうして、子供たち、その父母たちの間に将棋を指す楽しみと目標を与えながら、大会運営がいちおう軌道に乗った時点で、改めて将棋を本格的に教える「子供教室」の開設を計画しようと考えた。そして、いささかでも将棋の普及に貢献しながら、将棋以外に生きる道のない私自身を役立てたい、と願ったのである。
プロ入りして専門棋士になるのが、本来の私の夢であるが、現在の将棋連盟の制度ではそれは到底実現しそうにない。それならば、せめてものこと何らかの形で将棋の仕事に携わりながら、将棋の勉強を続けていきたい、と私は強く思った。
この夢は、日を追う毎に私の中でふくらんでいき、都下町田市の都議会議員・渋谷守生先生に大筋の趣旨をお話ししたところ、本当にヤル気があるなら応援しよう、とのお言葉をいただいた。
その後、子供将棋教室の母体となるものとして「東京将棋連盟」(仮称)を作ろうという話にまで進展した。知り合いの愛棋家数人の方にこの計画を説明したところ、皆さんが二つ返事で賛成してくださり、いずれも資金面その他の協力を快諾してくださった。この好反響に私はすっかり気をよくして、これなら十分やっていけそうだ、との自信を固めたのだが……それなのに、なぜ、あんな結末を迎えてしまったのだろうか。私は自分自身の肝甲斐なさに、呆れ、腹を立てた次第である。責任はすべて私にあり、その原因も私自身の中にあった。
決定的にまずかったのは、私の事務遂行能力の不足(計画実行までには、細かい無数の事務的な手続を積み上げていかなければならない)と金銭管理面のルーズさだった。具体的な活動に入る前に、わずかな障害につまずいて、これらの解決能力がないために、現実的なことはいっこうに前へ進まない。
しかも、このことを早い時期に鋭く自覚していたら、資金集めのテンポを早めて適当なスタッフを編成するなどして、私個人の欠陥を補うことが出来たのではあるが……。
金銭面でも、つまずく要素がいっぱいあった。たまたま有力者にお会いすると、資金の拠出もしくは借用をお願いするといった調子で、ある相当額のプールがなかなか出来なかった。
そして、いっぼうでは私個人の経済が完全に行き詰まっていたから、つい安易な気持ちで集まった金を一時流用する、流用したらそのまま元へ戻せなくなる、といった悪循環が重なっていくのだった。こうして、せっかく集まった金は私の生活費や交際費、酒代、借金の利息等に次々と消えていった。
いけない、いけない、と思いながらも、ズルズルと惰性が続き、資金はいっこうに確保できず、金が無くなると集め、集めては使ってしまう、という蟻地獄のような状態が続いた。
しまいには、サラ金まで手を出すようになった。こうなると焦りは焦りを呼び、少しでもなんとかしようと、競馬などのギャンブルに手を出すようになり、完全に深みにはまり込んでしまった。気がついた時には、前後三年ほどの間に数十件、約一千万円という莫大な借金だけが残った。
純粋な動機から出発したはずの計画だったが、私の至らなさ、だらしなさ、で結局は泥まみれの姿となってしまい、多くの知人、友人各位の好意を無にしてしまった。
まことに漸悦の極みである。
そして、身から出た錆とはいえ、昭和五十八年秋「将棋世界」誌十一月号に載った「許せないアマ名人-K池氏の素行」と題する「借金人生」「全国寸借詐欺騒動」の投書。これにはマイッタ。とどめを刺された私には、もはや耐える力が残っていなかった。
九月、私はなにもかも振り捨て、憤然と当てのない旅に出た。

 逃避行

私が東京から脱出したのは、昭和五十八年九月のことだった。逃げるようにして、将棋界から姿を消した。
直接の動機となったのは「将棋世界」誌に載った記事のためである。
満天下の愛棋家に私の醜態を暴露されてしまった。言い訳する気も起こらなかったし、開き直ることもできなかった。
どうしてあのとき踏ん張って残らなかったのか。過去の誤ちは誤ちとして謝罪し、誠心誠意を尽くして、その悔悟のしるしをなぜキチンと態度でもって示さなかったのか。
反省することばかりだが、私の弱さでそのときはどうしてもそれができなかった。
流れていくあては、名古屋しかない。名古屋の実家にしばらく身を寄せるか、母が死んだ後、父は後妻をめとっており、なにかと居づらい。サラ金からの電話攻勢で実家の電話番号は変わっており、父の私に対する信用もゼロに近くなっていた。
家を出ると、なけなしの金を持って競馬場に行った。すると、どうしたわけか、ズバリと大穴を当て八十万円ほどもうけ、たちまちフトコロが暖かくなった。しかし、それもわずかの間で、味をしめて馬券を買うが、そうは問屋がおろさない。
気がついたら、ポケットの中には二百十五円しか残っていない。
何でもいいから仕事を見つけねばならない。私は拾ったスポーツ新開の求人欄に血走った日を走らせた。
『土工、一日七千円、寮完備』の文字が目に入った。
これだ!これならすぐにも金になる。
一時間も歩いたろうか、やっとの思いで目的の会社にたどり着いた。会社のかまえを見て、一瞬ちゅうちょした。前を通り越して、近くの公園へ……。すぐそばに「中日球場」が見えた。しかし、いくら考えても同じことだ。いい考えが浮かぶはずがない。思い切って面接を受けに行った。荷物は何一つなく、身につけたヨレヨレの背広、これが全財産だった。
貸金は二日七千円。食事代と寮費を差し引かれると、後は全部、酒代に化ける。
寮の仲間は全員実によく飲んだ。もっとも酒でも飲まないと、佗住まいの生活はとてもやり切れない。私も皆と付き合って、酒を飲んだ。来る日も来る日も、働いては酒を飲み、また働いては酒を飲む。
これを繰り返しているうちに歳月はどんどん過ぎて行き、さすがに、この生活も嫌になってきた。
休みのある日、テレビを見ていると、偶然「将棋対局」の時間だった。私は食い入るように画面を見ていたが、いつしかポロポロと涙を流していた。
私にとって将棋とは何であったか、また現在何であるのか、よく分からない。
しかし、こんな生活を送るようになって、かつてのような充実感、満足感を一度も味わっていないことは確かである。
なにかを愛するとか、燃えるとか、といった感情を忘れて久しかった。こんな生活は、生活ではない。
たとえ苦しくとも、自分の存在を確認できるような暮らし、自分と向き合い、対決することによって喜びを味わえるような仕事、そんな浪密な時間がほしくなった。
そんな思いが募ったある日、私は一路東京を目指していた。
二度と東京の土を踏むこともあるまい、と思ってから三年近くの月日が流れていた。
上京しても、どこにも顔を出せた義理ではない。しばらくはだれにも会わないようにしていたが、それでは上京してきた意味がない。思い切って……。

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最後の真剣師 小池重明